コダーイシステムとは、ある意味で“仮の名前”に過ぎない。
コダーイが私たちに明らかにしたことは、
[すべての人が,みずからの民族の音楽的伝統によって音楽する道を歩むとき,
その音楽はその人の血となり,肉となって、
本来すぐれた音楽というものが人間の人格形成に果たす偉大な役割を真に機能させることができるだろう。]
ということである。
このことを,コダーイは仮説として立てた, ともいえるし,理論として完成した, ともいえる。実践によって立証したともいえるだろう。
(…中略…)
しかし, ここに二つの困難がある。
一つには、何によって立証されるのか? ということだ。
この音楽教育の目的自体が,そのような音楽教育を受けたり実践したりすることによって,それに参加する子どもたち,教師たち,音楽家たちの人格がよりバランスのとれた,円満なものになっていく, ということにあるのだから,それをテストやし理学的方法などで計ることは非常にむずかしい。
もう一つには,第一のことと関わっているのだが,人格形成という長いプロセスの中で行なわれる教育の方法は,いっときもじっとしてはいなくて,あるときはよく分からずにやっている人たちによって, 目的とするところはちがう方向にもっていかれることもあるだろうし,その方法の少しも本質的でない部分が一生懸命に実践され, ごく形式的,表面的な成果ばかりが生みだされることもありうる。もう,初めからきまったようにしかできない,だれがやっても同じように成立する方法, システムであるとすれば, こういうことはないだろう。
そもそも,音楽というものの本質からして, 理論と実践は,学問上の仮説のように主張され,立証されるという性格のものではない。
音 の事実というものは,存在するにしても感じることしかできず,それは主観的,流動的なものだからである。
であるから、コダーイは一人の,音楽教育という言語の中で思考した思想家にちがいなく,いつの時代にも,いろいろな人が彼の著作や作品を手にとって種々なことを学ぶことができるだろう。
また,彼の方法は,ひとつの生きたシステムである。いつの時代にも、その時代なりに,その民族なりに,その国なりに実践するだろう。そして,システム全体としては,あるとき,とてもよい方向に行き,多くの子どもや教師を幸福にするだろうし、また別なときには,とても狭いやり方でしか実践されず,人々はせいぜい楽譜が読めるようになったり,合唱運動がさかんになったりして喜ぶことだろう。それだけでも,また,よいことにはちがいない。
{※全音楽譜出版社『コダーイシステムの指導と実際』序文より。}
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