〜〜②【リズムの指導】〜〜
保育園でたくさんのわらべうたを経験してきた子ども達は、小学校に上がってからも音楽の時間にもう一度その歌を歌ったり遊んだりして楽しみます。さらに新しい歌も覚えます。
このようにして子ども達のレパートリーを豊かにしてゆくことには、2つの意味があります。
①一つは、音楽の授業が単なる技術や知識を得るための無味乾燥とした学習に陥らず、常に魅力的で新鮮な音楽との〝出会い〟のある楽しい時間になるようにするため。
②そしてもう一つの理由は《リズム》や《音程》など、音楽の〝要素〟を学習していく上でも、この〝レパートリー〟が大変大きな役割を果たしてゆくことになるからです。
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例えば、リズムの教え方を例にとってお話していきましょう。
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《拍感を養う》
リズム指導に於いて、まず最初に大切になるのは、子ども達の中に自然な‥しかし確かな‥〝拍感〟を養っていくということです。
この〝拍〟の要素は、実は子ども達が今までさんざん遊んできたわらべうたの中にすでにたくさん含まれているものです。
例えば、「なべなべそこぬけ」で繋いだ両手を振りながらうたう時、あるいは門くぐり遊び、はないちもんめ、また、輪を作って歩きながら遊ぶ「かごめかごめ」等のわらべうたも、すべて〝拍〟の動きを感じながら遊んでいることになります。
♩ ♩ ♩ ♩ ♩ ♩ ♩ ♩ ──────────────────────────── な べ な べ そ こぬ け ‥
♩ ♩ ♩ ♩ ♩ ♩ ♩ ♩ ♩ ♩ ‥ ──────────────────────────── かー ご め かご め か ごの‥
このようなわらべうたを日頃から十分に楽しく遊んでいる子ども達にとって拍の感覚というものは、既に身体の中に染み込んだ自然なものとなっています。ですから例えばピアノ伴奏無しで歌わせたとしても、そのような子ども達の歌がバラバラになってしまう‥?などと言うことは滅多に起こりません。
日本では、よく、先生が大きな音で太鼓を叩いて子ども達の歌を無理矢理そろえている‥と言ったような場面を見ることがありますね。‥が、そういったことは、音楽の自然な流れを犠牲にするばかりでなく、〝自分達で揃えて歌いたい〟という子ども達の自然な欲求を失わせ、音楽的自立心が育つのを妨げていることになるのではないか?‥というようなことも一度よくよく考えてみる必要があるでしょう。
‥とは言うものの、(この後の説明でも出てきますが‥)サイレントシンギング等のより高度な活動をさせるような場面では、日頃からわらべうたに親しんできた子ども達と言えども、さすがにテンポを揃えるのが難しくなってくることがあります。そのような時には、もちろん先生が小さな音で拍を叩いたり軽く指揮をして援助してあげることも必要です。あるいは、それを子ども達のより自立的な活動にしたいのであれば、「自分の膝を軽く拍叩きしながら歌ってごらん。」などの指示も大変に有効です。
あるいは、低学年であれば(保育園の時にやったような‥)歌のイメージに合う拍の〝おもしろ仕草〟をみんなで考え、それを次々にやりながら歌う‥などのゲームを復活させてもいいでしょう。それは子ども達の創造性を育てる楽しい時間にもなります。
「ほんとうは,学校でうたや音楽を,生徒にとって苦しみではなく,楽しみであるように教えなければならないはずだ。そして, 一生, 少しでも高貴な音楽への渇望がわいてくるように。楽譜や音の体系が, こどもにとって, 幾何学的,抽象的な謎の暗号であってはいけない。直接, 感じることの上に, 音楽を学ぶ道をひらいていかなければならない。」
〜ボーニシュ・フェレンツ編『コダーイ回顧録』第1巻より〜
さて、この〝拍の感覚〟さえ、もしも子ども達の中で確かなものになっていれば、それをこの後、より複雑なリズムの《意識的認識活動》また、《楽譜の読み書きの学習》に繋げてゆくのは全く訳の無いことです。
そしてもちろん、そこでも、子ども達のこれまでの〝豊かなレパートリーの蓄積〟が大きな力を発揮することになります。
>①一つは、音楽の授業が単なる技術や知識を得るための無味乾燥とした学習に陥らず、常に魅力的で新鮮な芸術作品との〝出会い〟のある楽しい時間になるようにするため。
この<芸術作品>という言葉に関して。魅力的で新鮮なのは芸術作品だけではなく、子どもがそれ以前に接する自分たちの民謡や近隣諸国のわらべうた・民謡も含みますので、<歌>とか<音楽>などに替えた方がよいと思うのですが、どうでしょうか。
こうやって詳細に解説することは大切で、本澤さんはよいお仕事をされていますね。この先も楽しみに読まさせていただきます。
なるほどー!確かにそうですね。ではさっそく〝音楽〟に変えさせていただきます。
ありがとうございました!
もと